ライズへの一年|第5回 窓のむこうで、おじさんになる

目次

序

小田急江ノ島線の善行駅を降りて、坂を上っていく。

住宅街を七分ほど歩くと、緑に囲まれた広い敷地が現れる。 その一角に、白い洋館が建っている。

グリーンハウス。 アントニン・レーモンドが設計した、旧藤澤カントリー倶楽部のクラブハウスである。

木の梁が交差する高い天井。 均等に並ぶ縦長の窓。 そこから差し込む光が、床に落ちている。

昭和の初め、ゴルフ場のクラブハウスとして建てられ、 いまは市民に開かれた施設として、この丘の上に残っている。

2026年9月12日、土曜日。 この洋館で、「湘南邸園文化祭2026」のキックオフイベントが開かれた。

湘南邸園文化祭は、湘南地域に残る歴史的な邸宅や庭園を舞台に、 それらを未来へ引き継いでいくために続けられている催しである。

今年のキックオフイベントには、こんなサブタイトルがついていた。

「未来の窓をひらく——若い世代と考える湘南邸園文化祭」

歴史的建造物を未来へつなぐための基調講演があり、 「未来の窓をひらく」と題したトークセッションがあり、 そのあとの交流会に、Aquariseが出演することになっていた。

古い建物を、次の世代へ引き継ぐこと。 それを考える場に、湘南でミュージカルをつくっている高校生たちが招かれた。


一年前の客席から

なぜ、声がかかったのか。

開演前に、主宰の浅川さんが教えてくれた。

去年の末、Aquariseはクラウドファンディングに挑戦していた。 第一回公演の資金を集めるためだった。

そのとき、浅川さんはいろんな場所を回っていた。 地域のコミュニティ、集まり、勉強会。 呼んでもらえるところがあれば、行って、プレゼンをした。

高校生がミュージカルをつくっています。 三月に公演をします。 力を貸してください。

そうやって話したうちのひとつの会場に、 客席で聞いている人がいた。

その人が、あとから声をかけてくれた。

そして一年後、その人が、この洋館の扉を開けてくれた。

「文化祭というと、文化とか芸術とか、そういうところを大事にして活動されている方々なので」

浅川さんはそう言った。

ミュージカルという芸術の観点から。 そして、「若い世代と考える」というサブタイトルの通り、若い人たちの取り組みとして。

湘南でミュージカルをやっている高校生がいる、という一年前の一言が、 歴史ある建物の交流会の、出演という形になって戻ってきた。

種を蒔いた場所は、すぐには芽を出さない。 けれど、どこかで誰かが覚えていることがある。


歌わない出番

Aquariseが地域のイベントに呼ばれるとき、 たいていは、歌とダンスのパフォーマンスをする。

六月の藤沢駅前の夏祭りでも、三曲を歌い、盆踊りの踊り子を務めた。 持ち時間のなかで、歌える曲を、歌う。 それがいつもの出番だった。

けれど今回、主催者からのリクエストは、違っていた。

劇をやってほしい。

Aquariseが用意したのは、二十分の書き下ろし演劇だった。 イベントのテーマである「窓」を、物語のなかに取り入れた、完全な新作。

一本の劇を書き下ろして上演するのは、 三月の本公演をのぞけば、初めての挑戦だという。

ミュージカル団体なのだから、もちろん芝居はする。 歌があって、踊りがあって、その間に物語がある。

けれど、歌のない二十分を、芝居だけで持たせるのは、また別の挑戦だった。

「初めての挑戦なので、今日は失敗してもいいかな、って」

浅川さんは、開演前にそう言った。

「そこから学ぶこととか、悔しくて次につなげることとか。失敗も経験になると思うので」

送り出す側の言葉として、それは少し変わっている。 失敗してもいい、と最初から言ってしまうことは、 うまくいかなかったときに、逃げ道をつくることにもなりかねない。

けれど、たぶん、そういうことではないのだろう。

挑戦する前に、結果ではないところに価値を置いておくこと。 それはこの団体が、これまで繰り返し言ってきたことでもある。


脚本は、漫才師

脚本を書いたのは、浅川さんの高校時代の同級生、中原蒼太さんだった。

たまたま大学で再会したのだという。

今、何やってるの。 そう聞いたら、漫才をやっている、と返ってきた。 ネタも、自分で書いている、と。

その話を聞いたとき、浅川さんの頭に浮かんだのは、 Aquariseの脚本のことだけではなかった。

「Aquariseを主催している側からすると、いろんな人に、新しい挑戦とか、好きなこととか、挑戦してほしいなって、すごく思ってるから」

だから、言った。

脚本、書いてみない?

普段はコントのネタを書いている彼が、演劇の脚本を書くのは、初めてのことだった。 それでも、その中原さんは引き受けてくれた。

頼んでから、二ヶ月ほど。
八月の上旬には、二十分の新作が届いていた。

「本当にすごくて」と浅川さんは言った。

ただ、脚本が手元にあっても、稽古にはなかなか取りかかれなかった。

九月に入ってからのAquariseは、 三月の本公演に向けたテーマソングの練習が優先されていた。

六月のキックオフで八人が選んだ、緑黄色社会の「キャラクター」。 歌いながら踊れるようになるまで、まだ道のりがある。

しかも、今回の出演メンバーはキャストの全員ではない。 劇の稽古は、空いた時間に、集まれる人だけで読み合わせをする程度だったという。

「正直、まだ仕上がってないです」

開演を控えて、浅川さんは笑いながらそう言った。


おじさんに、なる

この劇で主役を務めたのは、二期キャストのシュウさんである。

シュウさん(左)

もともと、高校の演劇部に入りたかった人だった。

入部はした。 けれど、部員の数が想像より少なく、やりたいことが実現できそうになかった。

ほかに演技ができる場所はないか。 そう探していたとき、同じ高校の同級生が、Aquaのチラシを配っているのを見た。

こんなところがあるなら、入ってみたい。

そうやって、この団体に来た。

演技しかやったことがなかった。 歌もダンスも、まったくの未経験だった。

去年、第一期の公演で、初めての舞台に立った。

「大勢の人の前で、しかもお金を払ってもらってまで見せる、というのが、とっても初めてで」

練習は大変だったという。 けれど、やりきったあとの達成感や、感想をもらえることが、うれしかった。

そして今年。 書き下ろしの劇で、主役を任された。

役は、おじさん。

会社では強く、家庭では弱い。 場面によって態度が変わる、二面性のある人物である。 セリフの量も、飛び抜けて多かった。

「家庭では弱く、会社では強く、っていう。このギャップというか、差をどうやってつけるかっていうのが難しかった」

しかも、似たようなセリフが、何度も出てくる。

「セリフがちょっと似たのが多くて、苦戦しました」

一週間前の時点で、セリフはまだ入っていなかった。

どう乗り越えたのかを聞くと、答えはふたつあった。

ひとつは、ひたすら読み合わせをすること。

そしてもうひとつは、ChatGPTだった。

脚本のデータを送り、こう頼んだのだという。

「このシーンの、前のセリフを出してもらって、『じゃあ、次のあなたのセリフは?』って。流れじゃなくて、暗記帳みたいな感じで、頑張りました」

その方法は、誰かに教わったものではなかった。

どうしよう、全然覚えられない。 そう相談したら、ChatGPTのほうから、読み込ませてみたらどうかと返ってきたのだという。

「チャッピーから、伝授されました」

おじさんの立ち回りや言葉づかいは、どうやってつくったのか。

「頭のなかで、おじさんっていう印象とか、アニメとか。自分のお父さんは、あんまりおじさんって感じじゃないから、身近に対象がいないんですけど」

少し考えてから、こう続けた。

「頑張ってイメージして、頑張りました」


本番

白い洋館のラウンジに、椅子が並べられた。

高い天井。木の梁。縦長の窓。 歴史的建造物を未来へつなぐことを考えるために集まった人たちが、その客席にいる。

そこに、二十分の新作が置かれた。

前日の稽古を見たとき、浅川さんは心配していた。 セリフが、まだ入っていなかったからだ。

主役のセリフ量は膨大で、 それが入らなければ、二十分は成立しない。

本番、シュウさんは、一度も立ち止まらなかった。

会社で威張り、家でうろたえる。 その切り替えを、最後まで演じ切った。

終演後、浅川さんは言った。

「昨日、前日に稽古を見たときは、セリフが入ってなかったから、そこに対する心配はあったけど」

そして、こう続けた。

「本番を見て、完璧に入っていて、一回も立ち止まることなくできた、そのすごさと。あと、おじさんっていうのが、私はやったことがないし、私にできると思えない。どうしてあんなにスラスラ、おじさんができるんだろうって」

「俳優として、尊敬する」

同じ団体を四年続けてきた主宰が、 今年入って二年目の高校生に対して、そう言った。


終演後

やり切った感想を、シュウさんに聞いた。

「達成感が、すごい。今日は、よく眠れそうです」

イベントに呼ばれて、二十分の演劇を担当する。 それは、Aquariseでは初めてのことだった。

今後も、こういう形でやっていきたいか。

「ちょっとやってみて、楽しかったから。もうちょっと、やってみたいなって思いました」

この劇は、これで終わりではないという。

自分たちの「持ち劇」として、 これからのイベントでも上演していきたい、と浅川さんは言った。

十月には、保護者やスポンサー、いつも見守ってくれている人たちに向けて、 自分たちで主催するイベントを開く構想がある。 そのときにも、この劇をやってもらいたい、と。

一週間で書かれ、空き時間に読み合わせただけの二十分が、 この団体のレパートリーになろうとしている。

最後に、シュウさんは、応援してくれる人たちへの言葉をこう続けた。

「歌とか以外にも、ちゃんとミュージカルとして、演劇として表現できるっていうのが、こういう小さな演劇とかコントみたいなもので見せられたと思うので」

そして、こう締めくくった。

「これからどんどん頑張っていくので、三月まで、応援よろしくお願いします」


編集後記

失敗してもいい、と送り出して、 一度も立ち止まらずに、帰ってくる。

この日の出来事を一行にすると、そうなる。

去年の冬、資金を集めるために、いろんな場所へプレゼンに行った。 その客席にいた人が、一年後、歴史ある洋館の扉を開けてくれた。

高校の同級生との偶然の再会が、一本の脚本になった。

覚えられないセリフは、AIと二人で暗記帳をつくった。

女子高生が、おじさんになる。 漫才師が、劇作家になる。

どの窓も、誰かが「やってみない?」と言ったところから開いている。

この日の会場は、古い建物を未来へつなぐことを考える場所だった。

八十年以上前に建てられた洋館を、壊さずに、使いながら残していく。 そのために人が集まり、話し合い、次の世代に手渡そうとしている。

一方で、その建物のなかで劇をやっていた団体も、 受け継ぐことから始まっている。

高校生ミュージカルAquaが活動を終えたとき、 そこで得た学びや感動を次の世代へ残したいと動いた人たちが、 Aquariseを立ち上げた。

古い建物と、四年目の団体。 規模も年月もまるで違うけれど、 どちらも、受け取ったものを次へ渡そうとしている点では、同じことをしている。

未来の窓をひらく。

その日のイベントのタイトルは、 たまたま、この連載の八人にも、そのまま当てはまる言葉だった。

三月の本公演まで、あと半年。

次の扉を、開けに行く。

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